母が少しずつ死んでいくのを見ている

 

固形物が食べられなくなってから医者と相談したら、食道にステントを入れて穴を広げたら飲み物くらいは飲めるようになるだろう、という提案をされた。でも、検査の結果、胃カメラが通るくらいのスキマはまだあるため、ステントを入れるのはかえって危険ということになった。ステントが胃まで落ちてしまうと、胃を破ったり内出血の原因になるらしい。何もできることがなくなった母は家に帰ってきた。それから1週間、いよいよ水を飲むのも苦労するようになった。

 

母の肺ガンは末期で、すでに体の色々なところに転移しているらしい。肺の周りにできた腫瘍が食道を圧迫しているため、固形物は1週間前から食べられなくなった。1週間前まではゼリーなどは少し食べることができたけど、今では水を飲むことすらおぼつかない。オレンジジュースを一口飲んで、氷を一つ口に入れてのどを湿らす。それがこの3日間の母の食事。そんな食事を1日に1度か2度する。

 

母は昔から強い人間だった。私の前で弱音を吐くことはほとんどなくて、弱気になるのはいつも私の役だった。

 

私は普段はニュージーランドに住んでいて、30半ばにして真面目に就職をしようと思い、学校に行っていた。あと1ヶ月でホリデー、年末はオーストラリアにでも行こうか、という時、母から末期ガンだと打ち明けられた。「あと3ヶ月くらいは大丈夫だけど、最後に顔を見たいから、ホリデーになったら帰っておいで」と最初の電話で言っていた母だけど、その1週間後の電話では「ごめん、やっぱりダメかもしれない。申し訳ないけど、すぐにでも戻ってきてほしい」と打って変わって弱気になっていた。私は急いでチケットを取り、5日後に日本に帰国した。

 

2年ぶりに実家に帰ると、ガリガリになった母が笑顔で迎えてくれた。「わざわざ帰ってきてくれてごめんね。あの時は弱気になってたけど、今は大丈夫になったから。」そんなに痩せて、大丈夫なわけないだろう、と私は心の中で思ったけれど、「意外と元気そうで安心したよ。」と口からは正反対の言葉が出てきた。

 

今、どんどん弱っていく母と二人で最後の時間を過ごしている。近くに住む私の姉がときどき様子を見に来てくれるが、姉は仕事も家庭もあるから、長い時間この家で過ごすことは難しい。

 

水しか飲めなくなってから、母は1日のほとんどの時間をベッドの上で過ごすようになった。ガンが分かった後、母は治療をしないという選択をした。母は10年ほど前にもガンにかかっていて、その時の抗がん剤治療がひどく苦痛だったらしい。この時も私は海外でフラフラしていたのだが、母は私に心配をかけないように治療が終わるまでガンだということも何も言わなかった。こうしてみると、私は親不孝者だなと思う。

母は次にまたガンになったら、緩和ケアだけにすると以前から言っていた。

 

ガンとの戦いは体力勝負。高齢で、かつガリガリに痩せてしまった母がこれから抗がん剤治療を開始しても、辛くて苦しい思いをする上に、きっと助からない。

 

「水やジュースをコップ一杯気持ちよく飲めないのが辛いけど、ガンによる痛みとかはないから、こんな感じで死ねるなら、案外悪くない最後だと思う。」弱った声で母が言う。私も正直、このまま痛みもなく眠るように死ねるなら、悪くないかなと思う。

 

ただ母の死を待つだけの生活が始まった。

 

身の回りの世話といっても、食事をしない母に対して私ができることといえば、氷を小さなカップに入れてあげることと、たまにオレンジジュースやバニラアイスを1口分だけ用意することだけ。あとは1日に2回ほどトイレに付き添うくらい。それ以外の時間、私は毎日何かするでもなく、隣の部屋で映画を観たり、本を読んだりして過ごしている。

 

母はこのまま死ぬことに納得しているし、自分の人生にも満足しているようだ。私も母の選択に納得している。このまま特に苦しまずに終われるなら、それがいい。こうやって自分に言い聞かせているけれど、それでも死んでいく親と二人きりで家にずっと一緒にいるというのは、やっぱりつらいものがある。

母に早く楽になってほしいという気持ちと、まだもう少しだけ死なないでほしいという気持ちが半々にある。それでもあと1週間くらいしか持たないだろう。

 

夜中に目が覚めると、私は母の様子を見に行く。 薄明るい部屋の中、母の掛け布団が呼吸でゆっくりと上下に動いているのを見ると安心する。